亀井健三自筆年譜

亀井健三自筆年譜 わが生い立ちとちぎり絵人生


1984(昭和59)年 66歳  金沢、長野、四日市初講、峰山、新潟、さつま各サークル発足。
 5月、米子で「全国ちぎり絵サークル合同展」(第1回全国展)。10日間に入場者1万人を越える。田舎の小さな美術館での素人集団の展覧会にこれだけの入場者とは驚きと、テレビ、新聞こぞっての批評。松本市長、安部先生、中野先生、浜田幸雄、市原芳三郎、市原団若各夫妻、全国30のサークル、350人の皆生温泉東光園での和やかなパーティ。永久に忘れ難い感動の夕だった。
 この夕、安部先生は珍らしく明治の歌を歌われ、それに合せて私が踊った。これが先生とご一緒した最後の機会になった。この年の暮、先生は不帰の客となられた。
 中野先生のお話しのなか、タンポポの種子が散らばって各地に新しい芽が生える比喩でちぎり絵のひろがりを喜んで下さったことも忘れがたい。
 7月、仙台で開催の「民間ユネスコ運動世界大会」に仙台サークルは積極的に参加、市民会館で作品展示会、全国サークル有志の協力により集まった300余点の式紙作品を外国からの参加者に寄贈し、主催団体から大変に喜ばれた。
 このユネスコ大会での成果を機会に、翌'85(昭和60)年代のちぎり絵国際化への積極的活動が始まる。
 NHK 名古屋教室開講(斎藤世津子さん)。
1985(昭和60)年 67歳  日仏現代美術展入選作を含む「ヒロシマ三部作」を広島市に寄贈。平和記念館に収蔵、随時展示ときまった。市長から丁重な感謝状をいただいた。手ばなした入選作の印象が薄れないうちにと、同じような三部作を制作、手許におくことにした。ヒロシマの悲劇への怒りと反戦の願いを、真夏の花ヒマワリたちが、閃光(白)、劫火(赤)、黒い雨(黒)の中で無惨に焼かれ、抹殺される姿に托したのである。
 この年広島市開催の「世界平和連帯都市市長会議」に広島サークルが協力、記念品として会員作品数百点を海外からの来賓に贈った。
 前年の全国米子展につづき、第2回全国高知展を伊野町紙の博物館で開催した。
 金沢、旭川、津、盛岡各サークル発足、桑名展、和歌山展初回。NHK東陽町教室開講。
1986(昭和61)年 68歳  この年以降ちぎり絵の海外への進出、国際交流時代に入る。
 3年がかりでまとめたちぎり絵の教科書『和紙ちぎり絵講義』の初版を刊行する。(私のちぎり絵の著作としては2冊目。)
 中国残留孤児の「肉親探し」帰国に、東京幹事会で記念品の式紙を贈る。この送迎に熱心だったハルビン時代の生徒坂田季雄君が、送迎活動で知りあった、日中平和友好会・金丸千尋さんに私たちのことを話し、金丸さんは中国黒竜江省綏芬河の対外友好協会・魏堯徳さんを案内して、東京サークル展に来場された。このとき魏さんはちぎり絵に大変興味をもたれたので、岡本さんが即席講習、同時に和紙などをさしあげた。魏さんは帰国後、勤務地で同好会をつくり制作を始め半年で展示会、まもなく魏さんは牡丹江市に転勤、ここでもちぎり絵の普及に努められ、2年後の日中ちぎり絵交流の草分けをしていただいた。
 7月、第3回全国豊橋展、市美術博物館、6日間の入場者5千人。館長さんがびっくりされたそうな。懇親会は蒲郡市のホテルふきぬき。350人の夕食と余興。
 10月、JETRO(日本貿易振興会)仙台センターの門脇輝雄さんの推薦で、モスクワ日本産業展に。先端産業と並んで日本の伝統文化紹介のため裏千家とちぎり絵の応援出演だ。十日間のモスクワでの仕事は大変楽しかった。久しぶりのロシア語、実演助手のロシア娘3人さんと、しゃべりまくった。実演も近所のソニー、ナショナル、日立のブースに劣らず黒山の人だかり、これなら毎年でも来たいと思った。戦中戦後、赤の国だと恐怖心をもったソ連が、戦後30余年日ソ関係がこんなに変ろうとは、平和は良きかな。手伝いの娘さんにばらの式紙を進呈したら、ホッペタにチュー。これ感謝の挨拶、誤解シナイデ!!
 この思い出は「日経新聞」12月8日の文化欄に「ちぎって貼って喜び、描く」と題して掲載された。「日経新聞」への紹介は、東京サークルの池上三喜子さんによる。
 徳島、善通寺サークル発足、江田島初訪問、江田島・呉展、熊本展、福岡展、四日市展、何れも初回。
1987(昭和62)年 69歳  朝日カルチャー湘南開講、甲府、帯広、気仙沼、鈴鹿、鶴岡、尾張旭の各サークル発足。新潟展、気仙沼展、鹿児島展、新潟展、善通寺展、各初回。
 長野の新海輝雄さんのお世話で東京幹事会の尾瀬探勝。素敵な旅だった。中国綏芬河から小さな作品が届いた。「通信」10号に紹介の「月夜帰帆」と「お友だち」。将来が期待できる。
1988(昭和63)年 70歳  古稀という。70歳が稀れという時代があった。今の感覚で稀れとは100歳だろう。男女平均寿命80歳の現代、70は初老、主宰の私が70歳の年間にやりとげた主な仕事は次の通り。(1)訪中、(2)訪米、(3)全国岡山展と中国代表5名日本招待、(4)NHKテレビ〈草の根のこころを描く〉出演、(5)鳥取女子短大公開講座。
(1)の訪中は一昨年の魏堯徳さんの東京展来訪のつづき、黒竜江省政府機関の招待。私たち夫婦と岡本、宮繁、坂田君の5名。5月20日成田発、北京を経てハルビン、牡丹江、綏芬河、9泊10日の旅。詳細は「通信」12号に。
 中国のちぎり絵活動の特徴は素人でなくプロの画家と大学美術系の教師学生が注目していること。世話役も省美術館館長・王純信さん。これなら研究も普及も早い。各地での熱烈歓迎と交流。日中の和平もこのような草の根交流から---と泌々感じた。このような仕事こそ敗戦後ハルビンを離れるとき、もし機会あればと秘かに心に決めた目標だった。中国とのちぎり絵交流に側面的に協力していただいた朝日新聞記者坂本龍彦氏(私たちの依頼に応じて多量の和紙をわざわざ中国辺境の地までとどけてくださった)のことは忘れない。
(2)訪米。仙台の門脇さんから、「今度はロサンゼルス、どうですか」の電話。「OK」で成立。毎秋の「日本週間」にちぎり絵の展示・講習をと、ロス・センターの木村所長の依頼。10月8日から17日まで。成田発の10月8日は奇しくもわが誕生日、同行の門脇夫人から「おめでとう」、飛行機で一夜明けた朝も同じ8日で、もう一度「おめでとう」。ケッタイなこと。ロス会場では持参作大小30点展示。初めて見るちぎり絵に、皆驚いていた。講習は当時すでに差別問題がやかましく、アフリカ系米人にはとくに丁寧に教えてあげた。
 ロスの夜のレセプション(歓迎パーティ)で私はアメリカ民謡・フォスターの「オールド・ブラック・ジョー」を歌うつもりだったのに、この歌差別語があるから駄目だとのこと。急遽「青い目の人形」に変え、60年昔の小学生の頃の思い出を話し、「もしあのときのようなやさしい心が日米両国民の間で育てられていたら、戦争という悲しい恐ろしいことは起きなかったでしょう」と結んだあと、歌を歌ったら、すぐあと、白人の女教師二人が私のところに来られ「良い話でした」と同感の挨拶をしてくださった。
 ロスには以前から広島出身の庵原鶴子さんが少数グループで教えておられ、今回を機にロス・サークルとして発足ときまった。以来12年活動を続け、全国仙台展には一行10余名で来日された。
(3)第4回全国岡山展、11月17日~21日、岡山高島屋、出品作360(中国11、ロス1)、会期5日間、入場者1万人を超えた。2日目全国懇親会、私の古稀を祝って備中神楽、中国代表5名の出席、最高に盛り上った。
(4)は省略。
(5)私は中国では四大学で「和紙芸術」を講義しているのに、日本では皆無、と思っていたら、本県中部の倉吉市、鳥取女子短大から公開講座の依頼があった。当日は一般市民も参加。その中に石原秋子さん、塩見恵子さんがおられ、講義参加を機会に親しくなられ、翌年の倉吉サークルの発足という嬉しい話になった。
「ヒロシマ」三部作の絵はがきを製作。5,000セットを広島市に寄贈、外国の来訪者へプレゼント用におねがい。
 別府、ロサンゼルス、稲沢、新庄の各サークル発足。津展、大阪高島屋友の会展、盛岡展、帯広展、鶴岡展など初回。
1989(平成1)年 71歳  第5回全国札幌展、6月9日から14日まで五番館。前夜祭は8日定山渓ビューホテル。参加者3百数十名、来賓20名、天安門事件の影響で中国からの招待は中止。新潟大学留学中の王英春君に中国作家代表の代役。在札幌中国総領事・楊成良ご夫妻も来場、満足の様子。
 6日間の会期入場者1万数千、毎日新聞の増山隆さんには大変おせわになった。
「世界平和連帯都市市長会議」(広島)の参加各市長に広島サークルから記念の式紙400枚寄贈。
 佐渡開講。 倉吉サークル発足。
 柏展、徳島展、朝日カルチャー横浜・関内・湘南合同展、別府展、NHK東陽町展(各初回)。
1990(平成2)年 72歳  <北海道、カナダ・アルバータ州友好10周年記念の旅>に参加。
 カナダがいかに道義的な国で国際的な信頼を得ているかは「通信」18号に詳説。戦後ドイツが、ワイツゼッカー大統領のもと、全ヨーロッパでナチス・ドイツが憎しみの国から尊敬されるべき国に変ったのと同様である。
 北海道の友好の翼に便乗、9月10日から10日間、実に楽しい旅だった。詳細は「通信」18号。
 全国から10号62点、エドモントンの文化センターに展示、3日間の会期に沢山の人々に見てもらい講習もした。2日目、近所の小学生数百名の来場、和やかな交流、最終日、展示作品全部をカナダ側に寄贈する儀式でのスピーチで、拙作「淡墨の桜」を提示しながら「この寿命千年の桜のように日本・カナダの友好の末永からんことを」と述べ、あとで前道知事堂垣内夫人からおほめの辞をいただいた。東京サークル岡見尚子さんの令妹横田夫妻のお力添えもあってエドモントンにサークルが生れたのは間もなくであった。(世話役は横田律子、フルー・ケイコさん。このお二人、のちにエドモントン・サークルの中心となられる。)
 金沢展、鈴鹿展(各初回)。佐渡サークル発足、徳島サークル初訪問。  NHK前橋教室発足(稲見喜久子さん)。

1990(平成2)年
カナダ訪問。出発地千歳空港にて。
“ちぎり絵サークルはこの旗の下に集まれ”
1991(平成3)年 73歳  「高知国際紙画展」。
 第6回全国仙台展、出品291点(中国9、ロス3、カナダ1を含む)、6月4日から6日間、青葉城の下の県立美術館、入場者は連日1,000人を越え、美術館長が驚かれた。県知事、市長、韓国総領事来場。全期間参観者6,500人。夜の全国懇親会は秋保温泉の大ホテル2つ借切り、主宰の私は挨拶、乾杯、歌と踊りを2ケ所かけ持ちで往復、いささか疲れました。広島の森岡まさ子先生の講演は一同に深い感銘。仙台の西崎緑仙さん、沖縄の仲田春子さんの舞踊、岡山の田川さんの二胡など、さいごに全員「荒城の月」のコーラス。楽しい一夕だった。
 7月31日NHKテレビ〈婦人百科〉「朝顔のちぎり絵」に出演、東京サークル岡本町子、島田比佐子さんの応援、対談は赤平千春さん。赤平さんはその後ちぎり絵ファンになられ、展覧会はいつも見ていただいている。また担当の若山慧子さんにはずい分お世話になった。
 水戸サークル、古河サークルの発足、旭川展(初回)。
1992(平成4)年 74歳  9月「日中国交正常化20周年記念・日中友好和紙芸術聯展」をハルビン美術館で開催、全国のサークルによびかけ91名の参加・訪中。
 開幕式での私の挨拶の一部---「日中両国民にとって歴史的に忘れ難い重い意味をもつこの東北の地にこそ、両国永久平和の金字塔を建てなければなりません。私たちはちぎり絵交流を通して微力ながら両国人民の平和と友情の絆をかたくしたいと思います。
 芸術が育つためには平和が前提ですが、芸術は逆に平和を生む力をもっています。日本のすぐれた政治学者・故大山郁夫は『真実はあらゆる障害をのり越えて旅をする』と申しました。芸術もまた千仭の山、万里の波涛を越えて人々に美と友情を伝達するものだと確信します。」
 ハルビン大学で「和紙と和紙芸術」講義。
 柏サークル発足(近藤幸子さん)。稲沢展、日中友好茨城展、尾張旭展、水戸、善通寺初訪問。NHK宇都宮教室(吉井順子さん)、日本橋三越文化教室開講。
1993(平成5)年 75歳  1月、フランス・ベルサイユ市開催のベルサイユ日本文化祭。初参加だから小規模にという企画・運営係の仙台・門脇さんの意向で、気仙沼サークル中心に30人。1月末に訪仏。会場の市文化センターには各種の日本伝統文化諸団体が出品、それに私たちも加わって、一行30人、出品作品25点。講習用にミニ式紙の大きさで200セット準備、大盛会、初日に全部使いつくし、2日目は別に大急ぎ300セットを用意するほどに受講者は熱心だった。
 駐仏矢田部大使の来場、大使に記念作品を進呈。
 終了後、パリ観光、イタリア数都市とイギリスをまわって帰国。
 第7回全国福山展、5月26日~30日、ふくやま美術館と天満屋の2会場、第1会場148点、第2会場は223点。開会式の第1会場には800名の参集。第2会場はデパートだから、予想どおりの大盛況。記念式典はニューキャスル、パネル討論、800人の「バラが咲いた」の合唱。懇親会はクルージングの船上で、前夜祭と当日祭の2回にわかれての感動的行事。
 9月、ハルビンの王純信館長、ハルビン大学の田衛平教授の招待で訪中、私と妻と長男の3人。目的は大学の講義と新発足チチハル・サークルでの講演会。2ケ所とも無事終了。帰途、北京中央工芸美術学院で特別講義。東京芸大以上に評価されている中国最高の美術系大学。講義が面白くないと学生が次々エスケーブ、何%のこるかで講義が評価されるとか。私のばあいほとんど100%の残存率、ここの卒業生・田教授は大変な喜びようだった。北京滞在中、近く開催予定の日中和紙画合同展の会場、中国美術館を下見がてら見学、この2週間は最高に楽しい旅だった。
 児島サークル発足、新庄サークル初訪問、新庄展(初回)。
1994(平成6)年 76歳  2月、「ベルサイユ日本文化祭」再度の参加、全国各サークル有志23名。成田発、パリ市内観光、私と岡本、宮繁3人は日本人小学校でちぎり絵講習。夕方ベルサイユ市長主催カクテルパーティ、翌日展示会と講習、去年の経験で万事うまく行った。フランス人のちぎり絵に対する関心は高い。若ければパリでちぎり絵教室でも始めるところ。持参の材料200セット全部使いきる。
 帰途ベネチア。美しい凄い町、いままで数回訪ねたヨーロッパ都市で最も印象が強かった。夕方遅くなって一行ゴンドラに分乗、私たちの船に同乗の老歌手がイタリア民謡の数々をバスで歌ってくれた。月明の水都、いつまでも忘れない。フィレンツェのダビデ像、ローマ・バチカン博物館、システィナ礼拝堂は修復直後のミケランジェロの天井画。ここの修復に典具帖が大量に使われたよし。大いなる誇り。
 5月、ハルビン大学のC学長と田衛平教授を日本に招待。東京、豊橋(豊橋展)、広島(田教授は広島市に原爆をテーマの水墨画寄贈)、広島教室では、庶民層への展開ぶりに両先生驚嘆。高知へ。「おらんくや」ですしの歓迎パーティ。伊野町の紙の博物館と浜田さんの落水紙作り。岡山、倉敷の日程を終え京都へ、市内観光のあと伊部京子工房、精華大学訪問。再び東京へ。フジテレビ、NECO参観、6月24日成田から帰国、盛り沢山の日程、ゴクローサンでした。
 アジア友好広島合同展、9月のアジア競技大会広島開催に協賛して県民文化センターでアジア招待作品46点を含む168点出品。
 児島初講習、児島展初回。
1995(平成7)年 77歳  3月、米子市の友好市・中国保定市を初訪問、一行7名、博物院で米子水星会作品100点展示、9日、市の中心の会場入口、市民数百人参集の中で開幕式と実演、午後館内で一般市民40人1組30分ずつ4回の講習会、午後は河北工芸美術学校で200人を前に講義と実技、学生による小瓶の中に精密画を描く技法実技を見学。11日は河北大学で講義。12日、昨日の会場で2組の講習のあと、デパートでの公開講習、そのあとホテルで保定市長に米子市長のメッセージを渡し、午後北京に向う。途中「北京原人」の周口店博物館を見学。北京経由帰国。
 7月、第8回全国旭川展、ラベンダの花盛りの7月、出品作732、20日会場アリーナで堂々開会、5日間の入場者1万6千。懇親会は7百人以上、新築のグランドホテルで、私の喜寿を祝って頂く。「生きていてよかった」と感謝の挨拶。
 旭川大会は最高潮の盛会で終了したが、主催者代表の宮野ユリ子さんは進行中の重病の苦痛を注射で耐えながら自分の生涯のしめくくりとしてこの展覧会に取り組み、見事な成果をあげられたのだ。あとで知って涙にむせんだ。
 宮野ユリ子さん、ありがとう。
 安らかにおねむりください。
 10月23日、朝日新聞「論壇」に私の投稿「蔑視から平和は生れない」が掲載される。今春訪中時の保定市の展示会場が百年前の日清戦争当時中国政界最高実力者・李鴻章の執務した直隷総督署の建物だと知ったことが本稿執筆の動機。論旨内容に自信はあったが、朝日に掲載、私には最大の快事だった。
 門司公民館開講(縄田道代さん)、甲府サークル展(初回)
1996(平成8)年 78歳  1月、日本テレビ「ワザあり! にっぽん」取材、典具帖の浜田幸雄さんの業績の協力者として全国放送。
 この年6月、鹿児島から旭川までの20日の長距離旅行のあと、旭川から空路名古屋について一泊、名古屋展を見て米子に帰る予定だったのに、展覧会場で妻の体調が急に悪くなり、救急車で入院、軽い脳梗塞とのことで3日で退院、米子に帰り精密検査、自宅静養という予期せぬ事態になった。
 それにしても'76(昭和51)年以来この'96(平成8)年まで21年間マイカーに始まってフルムーンパス268枚使っての長期旅行を、よくもついてきてくれたものだ。
 どこに行ってもサークルで歓待され名勝の地に案内してもらい、楽しい想い出一杯だった。でも二人三脚の相手には辛いこともあったろう。以前にも2、3回病気の前兆はあったが、本人は病院嫌い、ハルビンでの病気以来風邪もひかず、健康を過信したのが裏目に出た。私も気を許したのが悪かった。(以来3年自宅静養、現在はほとんど回復、家事とカルチャー書道教室、東洋医学の治療院通い。長い間故郷不在だったので疎遠になっている同窓生や、新しい友人との交流に毎日を楽しんでいます。)
 9月、数年来の懸案「日中ちぎり絵交流と和紙の里帰り北京展」。日本から訪中団100人、開幕式には中日友好協会会長孫平化氏が北京と黒竜江省各界要人16名を代表して挨拶された。高知の技術者たちによる紙漉き実演、ちぎり絵の講習は来訪者に興味をあたえた。展示作品300点、中国作品の作風は日本からの訪中団全員に大きい示唆をあたえた。
 期間中、民族大学の招きで、同大学訪問。講義と講習を行った。
 翌10月再度の訪中、これは米子市・保定市友好5周年記念の「友好の翼」。米子市民120名と米子空港出発の保定行。河北大学と工芸美術専門校で講義、展覧会。政治や外交の面で多少の不協和音があろうと、日中人民の草の根交流の絆は着実に強化されつつあることを、ちぎり絵交流を通じて確信している。
 尾張旭サークル初訪問。

1996(平成8)年
日中紙画交流北京展、開会式に来場の
中日友好協会会長孫平化氏と
1997(平成9)年 79歳  5月、第9回全国鹿児島展。開幕式は「種ケ島銃」の祝いの銃声を合図に。展示会場内で最近他界された那覇の仲田春子さんの遺作に合掌したと主催者代表の田丸シズヱさん。旭川からもサークル代表が宮野さんの遺影を抱いて来鹿されたよし。サークルの絆はこのようなやさしい心情で結ばれている。
 桜島は全国の素敵なオバチャンたちの魅力に恥じらって雲がくれ。その代り地殻鳴動の歓迎(?)があった。震度4。
 夜の懇親会は大盛会。
 さつまサークルのボランティア指導による福祉施設9ケ所の大形作品が注目された。地元の式紙と4号の中に立派なものが多かった。
 5月下旬、何度目かの黒竜江省訪問、私のほか熊本の井上十四春、岡本町子、松浪千秋、篠田伊都の各氏と通訳の田川さんの5人。
 福岡から大連経由、ハルビン。大学で講義、美術館でサークルの皆さんと交流。牡丹江でも一般会員と朝の懇談(中高齢の婦人が多いことに驚く)、そのあと名勝の鏡泊湖を探勝、帰途大連経由で福岡へ。
 9月、門司初回の日中交流展、高崎サークル発足と高崎展(初回)。
 11月、鳥取県の韓国友好行政区・江原道に県知事訪問、記念品に私の作品をとの依頼で「ばら」寄贈。
 12月、朝日新聞「声」欄に投稿「否定できない『南京の真実』」。大阪版と東京版の双方に掲載。コピーを中国の知人何人かに送った。北京民族大学長、王碧恵女史から共感の返信。
1998(平成10)年 80歳  3月、高知サークル主催で「三海二山展」、三海は日本海、瀬戸内海、太平洋。二山は中国山脈と四国山脈、これらを南北に結ぶハイウェイの貫通を記念、沿線5県のサークルの合同展と記念集会。小型の全国展。橋本知事、松尾「竜馬」市長の来場。
 6月、日本・紙アカデミー賞をうける。
 10月、古河展と古河教室初訪問。有名な渡良瀬遊水池見学、田中正造の銅像を仰ぎながら足尾鉱毒事件の往時を偲ぶ。翌日東京サークル有志と軽井沢、草津温泉へスケッチ・バス旅行。
1999(平成11)年 81歳  1月『定年後』(岩波書店刊行)に拙稿「和紙画一筋の後半生」掲載。朝日の書評は東北大哲学科10年後輩、中央大学教授木田元さんが、毎日では「いきいき家庭欄」に同社の紀平重成記者の紹介記事。ベトスセラーで数十万部出たときく。韓国出版社より韓国語翻訳出版の申入れがあったよし。
 4月初め東京展の上京時、突如右下脚部の神経痛、羽田空港内は車椅子のていたらく、米子で20日間治療に専念、回復。足の運動不足が原因らしい。一念発起のプール通い、水中漫歩に専念、快調。秋の大業に備えて大切な日々を送迎。
 松山市塚本、北条市、今治市で開講(田添美智子さん)。
「本の学校」の永井伸和さんの推薦で、「第17回国民文化祭とっとり2002」の分野別フェスティバル<和紙>に参加の要請うける。

1999(平成11)年
個展を祝ってハルビンの関栄王、王純信両氏から贈られた黒竜江省で著名な書家晁楯氏の書
追    記
 この自筆年譜の始め、生い立ちの項で、父のことを書き、母のことはほとんど語らなかった。13年前91歳で天寿を全うした母、荒物商の父を助け大正後半から昭和60年までの、戦前、戦中、戦後、を7人の子の母として生きぬいた。とくに男の子5人のうち上3人はちょうど徴兵年齢、兄は中国戦線に数年、三男は近衛兵で東京、次男の私は満州、日々異境にある子供の身の上を思う心痛は大変だったろう。幸いに3人とも生きながらえて帰郷できたことは母にとって最大の喜びだったにちがいない。ほかに妹2人と弟2人、みな良い家庭をもち、それぞれの孫たちに手編みの小物を贈ることを楽しみにしていた。私も母の亡くなる前年に米子で第1回全国展をひらき、母を展覧会場へ迎え、安部先生、中野先生からねぎらいのお言葉をいただいたことなど、小さな親孝行になったなと思っている。