亀井健三自筆年譜


亀井健三自筆年譜 わが生い立ちとちぎり絵人生


1918(大正7)年  鳥取県米子町(現米子市)に生れる。父かた母かたとも米子在住の町人。(全国サークルめぐりのころ、津和野藩主との関係の有無を問われた。島根の国会議員に同姓ありしためか、全く無関係。亀井姓はどこにもある。現に広島県選出の元気のいい議員さんも同姓。ただしわがつれあいは鳥取藩の帰農士族の娘、町家の兄ちゃんにご降嫁と相成ったが。)
 私の出生時、父は12歳から丁稚奉公した町内の商家から暖簾分け、同じ商店街を3丁ほど下ったところに一戸を構えた。その頃すでに、母と兄との4人家族。砂糖・乾物を商い、次第に商品の種類を増やし、私の小学校卒業時には“何でもある店”(いまのスーパーの小型)に発展(?)していた。
 家は借家、間口5米、奥行は25米。2階建。屋内は、やがて子供7人の9人家族、居間7畳半以外は、1階2階とも商品で一杯、子供心にも商品回転率は超スローと感じた。商売の仕方は、客に「それ、ありません」とは絶対いわない。手持がないと必ず「明日入荷します」と答え、すぐあとで私に市内の卸屋に買いに行かせた。昭和初めの不況期、田舎の零細な店で9人家族が生きていくのは大変だったろう。しかし父のこの商法、決して上手とはいえなかったが、昭和10年代、私が進学する頃、時局も次第に切迫、一般の生活物資が次第に不足しがちになったため、従来の滞貨が威力を発揮、戦争末期から戦後にかけてはかなり繁盛したようだ。下手上手ということか。それにしても開業以来数十年、この店と商法を知りぬいて品物を送りこんでくれた卸屋さんたちの父への信頼は絶大だったと思う。あらためて父の商法に敬服する。

幼稚園生(前列左から2人目)
1925(大正14)年 7歳  米子明道小学校に入学、2年後、9歳、就將小学校に転校(学区編成替)。転校ときまった春休み、もとの学校が懐しく、毎日見に行った。校庭のえにしだの花の黄色が目にしみた。
 4月新しい学校でのある朝、全校生が校庭に集められ、校長先生から「青い目の人形」がアメリカの親善使節としてやってきたといって人形が紹介された。この後日談は、'88(昭和63)年の項に譲る。
 小学校入学前の短い幼稚園生活と合わせて7年間、のち、ちぎり絵作家となる素質(?)に関連する思い出のいくつか---
(1)幼いころから草花を育てることが異常に好きだった。生家は町の中、1坪の菜園もない。2階の勉強部屋の雨戸下の屋根に4、5段の棚を作ってもらい、植木鉢を30くらい並べて毎年アサガオを育てた。子供のこと種播きの時期も知らない。3月に播いたのが4月中旬のある日、小さい黒皮をもたげて芽吹いてくる、そのときの感動はいまでも忘れない。大きな肥料問屋に20銭のマメ粕を買いに行って、恥ずかしくて店に入りづらかったことなど。
(2)草花への愛好は田園生活への憧憬に連なる。同級生のなかで郊外の農家から通う子と親しくなり、毎日学校の帰りは、まわり道してその友達の家で遊んだ。
(3)だから学校での自由画はいつも田舎生活がモチーフだった。3年生のとき、鯉のぼりの画題で、草屋根の農家の庭に真鯉、緋鯉を空高く泳がせたら、先生から小バカにするような言葉をきいた。そのときの悲痛な思いはいまも忘れない。私はその絵を破りすて、何の面白みもない都会のビルを描き小さな鯉を泳がせた。
 心ない教師の一言がどんなに生徒の心を傷つけるか、私がちぎり絵サークルで教える立場に立ったいま、あのときの体験を思い出し自戒する。
(4)私の乏しい画才でも幼い頃の微かな芽生えに思いあたる。幼稚園と小学校低学年を通して私の描く田園風景では、いつも遠近法を使っていた。画用紙の中程に地平線をひき、山や森を描き、小さな家をかいて、その家から手前に通ずる道は曲線で細く始め、だんだん広くする。せっかく遠近法を使ったこの幼稚園児の絵を、ほめてくれた人はだれもいなかったが。
(5)嬉しかった思い出もある。6年生の図画は担任の福間先生でなく荒川先生だったが、ある日荒川先生が友人のプロの画家を案内してきて私たちの教室の全員の絵を批評された。私の絵をとりあげて少し褒めたあと(この絵、今は無くなった米子城の内濠わきの郡役所付近の池で子供が鮒を釣っている風景)、「子供に目や鼻まで描きこむ必要はないよ」とやんわり批評してくださった。この人、米子在住の丹羽長兵衛というかなり有名な画家だった。

米子就將小学校3年生、1クラス64名もいた
(前から2列目右から4人目)

尋常小学校卒業証書
1931(昭和6)年 13歳  鳥取県立米子商蚕学校商業科に入学。この年の9月満州事変勃発。在学5年間は、世界恐慌に喘ぐ日本資本主義が、満州植民地化を手はじめに中国侵略に乗出し、やがて対中国本格戦争から対米英戦争へと絶望的な展開をする15年戦争の前3分の1に当るが、地方の学園はまだ平穏、私たちは青春第1期を楽しむことができた。
 この学校時代、絵画についての思い出はほとんどない。商業美術でポスターなど描かされたくらい。あるとき鉛筆デッサンで左手の指を描いたことがあるが、われながらよく描けたと思った。松江市に遊びに行って美術展をやっており初めて裸婦の絵を見て驚いたこと、何かの抽象画でアンパンが貼りつけてあったことを覚えている。
 家業のあとをつぐつもりで入学、当然商業課目を学習したが、簿記にはとくに興味をもった。それは複式簿記の理論がのち大学哲学科で学習した弁証法の思考に通じるものがあったせいか。当時の恩師原田太郎先生の娘さんがいま京都山科サークル幹事菊井靖子さん、林国太郎先生は今年102歳、出雲市でご健在である。
 商業科1学年1クラス、卒業時は40人余り、いま生存者で連絡できるのは数名。東京の松下總一君(本州製紙退職)、鎌倉の立林三郎君(松下電器退職)、大阪の福永武雄君(富士銀行退職)、米子の後藤碩君(米子後藤絣店)。
 今度の個展でかなりの人数が宿泊される皆生温泉のホテル東光園、ここの社長石尾晃久君も同級生だったが、先年死亡された。彼のご好意で私の作品はホテル内の画廊に常時展示して頂いている。
 同級生判沢弘君とは、かれが中央大学、早稲田大学、応召・引揚後の米子での生活、再度上京、東京工大教授、早大講師で死去するまでの長い期間、それぞれの生活の面でも精神の面でも、たがいに影響しあった莫逆の友であった。
 米子商店街のド真中、私の勉強部屋は2階の裏向き、裏の小川を隔てた川筋には米子一のキングカフェ、夕方から夜中まで電蓄で当時の流行歌をつぎつぎ流してくれた。おかげで昭和の初めの流行歌のほとんどを覚えることができた。進学ときまり英語や簿記を勉強しながら耳からは甘く切ないメロディ。「ながら族」のハシリ(?)。 酒は涙か、19の春、君恋し、赤い椿の、窓にもたれて、月が鏡であったなら、ああそれなのに、国境の町、サーカスの歌、島の娘……いくらでもでてきます。これらの歌が私の青春の情感をどんなに豊かにしてくれたことか、町中育ちも悪くなかったと父に感謝する。

1934(昭和9)年
米子商蚕学校3年生