亀井健三自筆年譜

亀井健三自筆年譜 わが生い立ちとちぎり絵人生


1936(昭和11)年 18歳  私の青春中期は日中15年戦争第2期と重複する。神戸高商受験の前月が2・26事件。このときわが家で初めてラジオを買った。
 入試合格の感激は忘れ得ない。新しい人生の出発だ。学校は期待どおり実に豊かなものを私にあたえてくれた。素晴しい教師、すぐれた同窓たち。そしてそれまで全く未知だった学問や芸術の世界との出会い。この学校に入って最大の収穫は、哲学概論の田村実先生との出会い。先生の「4つのリンゴ」の講義を通してギリシャの神話や哲学、キリスト教、思想や芸術の奥深さを知り、わが人生航路に新しい大視野がひらかれた。
 経済学や商業学科の勉強をわきにおいて、ひたすら哲学書や文学書をむさぼり読んだ。倉田百三、阿部次郎、和辻哲郎、西田幾多郎、トルストイ、ドストイェフスキー、ロマン・ロラン、ゲーテ……
 田村先生は私が考えていた以上に私のことを考えてくださっていて、私が仙台の大学を出て大陸渡航した直後、敗戦後引揚げてきたとき、さらに高商が新しく大学(神戸商大)に昇格するときの3回、私を母校の教師にと招いてくださった。ありがたいお心づかいだったが、いろいろの事情で先生のご期待に添うことができなかった。(しかしもし先生のお招きに応じていれば、私のちぎり絵も、サークルの皆さんとの出会いも生れなかった。)いま1つ付言したい。先生が私をモデルに「ファウストの末裔」という短篇をかかれたこと、“ファウスト”はドイツの詩人ゲーテの名作。そのファウストの名を冠して末裔だと呼んでくださったことは、私がよほど奇妙な、それでいて先生の興味をそそる弟子だと思われた証拠である。先生が他界されて10年余、最高に敬愛した恩師です。
 同窓にもすぐれた先輩、同期生がいる。全国に老人福祉施設「悠々の里」をつくられた岩田誠一さん。日露戦争のときバルチック艦隊の水死者が日本海沿岸に流れついたのを沿岸漁民が手厚く葬った事実を、克明に調査して、報告書を出版、ロシア側からロ日友好賞の第1号をうけられた鈴川正久さん。同期生では久保田鉄工専務を務めた内田重一君、積水化成の社長だった川本貢君、いっとき大阪毎日文化センターちぎり絵講座の受講生だった赤井敦子さんの夫君、赤井千嶽君。'99年1月千葉県野田市の公民館の講座開設にお世話になった森本清暁君、国際的に知られた評論家・大森実氏の兄、大森隆夫君など。
 神戸時代、絵画への関心の埋れ火のせいか、妙なことを覚えている。法学概論の小松泰馬先生が、講義のあいま、ふと話された「日本の浮世絵がフランス印象派に少なからず影響をあたえている……」、いまでは常識だが、60年前関西の商業専門校でこの話を心にとめた学生がいたのだ。
 もう1つは本多実先生、講義の半ば突然「いまいい映画やってるよ、『暖流』というんだ。主人公は佐分利信、小樽高商卒というので、諸君の経歴に似ている……」 早速見に行ったら佐分利、水戸光子、徳大寺伸、それに高峰三枝子。昭和12年の話題作。高峰が私と同じ大正7年生れという親近感もあって、以来ファンになった。映画での対面から50年も経って、実物の彼女に出会ったのは東海道新幹線の車中、私たちフルムーンのグリーン車で東上中、偶然名古屋駅で同じ車輌に乗りこんできた。チャンス!!  サインでもと思ったが、勇気がなかったね。彼女、新横浜で下車、翌年急死、このときが初めての最後となった。つい一昨年、高崎サークル発足時、高崎を訪ねたら大井八重子さんが娘さんの運転で、「湖畔の宿」のモデルの榛名湖に案内してくださった。湖畔の小高い丘の上に「歌碑」があり、電子音楽が流れる。遠い懐しい青春の日を偲んだ。
 青春の想い出といえば、神戸時代須磨の下宿生活で実らぬままに終った片恋がある。その思いを、須磨から程近い播州龍野生れの詩人三木露風の詩に托したい。露風は童謡「赤とんぼ」の作詩者で有名だが、青春の思いを詠んだ沢山の詩がある。中でも私が暗誦しているのは次の2篇。

ふるさとの

ふるさとの、小野の木立に、笛の音の、うるむ月夜や。

少女子は、熱きこゝろに、そをば聞き、涙ながしき。

十年經ぬ、おなじ心に、君泣くや、母となりても。

接吻の後に

「眠りたまふや。」「否。」といふ。

皐月、花さく、日なかごろ。

湖べの草に、日の下に、「眼閉ぢ死なむ」と、君こたふ。

〔引用は(財)霞城館版『詩集 廢園 三木露風』による〕

 神戸時代は最初2ケ月明石の親類宅で、5月学校に近い垂水の丘の下宿屋、2年生のとき須磨の山手の高級住宅に用心棒かねて居候、3年の後半は学校の真下の私立の寮に入った。この3年間は私にとっての少年から大人への過渡期=「疾風怒濤」の時代だった。恩師に傾倒し、哲学に沈潜し、文学に没頭し、友情に忘我し、恋愛(論)に惑溺。次の進学は当然、仙台の東北大学文学系を目指した。それは私にとって「山のあなたの空遠く」住む「幸い」への儚い憧れだったのだが。

1937(昭和12)年
神戸高商2年生


1937(昭和12)年
神戸高商2年生、大山で
(右は判沢弘君)


1938(昭和13)年
神戸高商3年生、田村ゼミ、高商近くのゴルフ場で、先生に向かって左が私、右が内田君
1939(昭和14)年 21歳  神戸時代は最初2ケ月明石の親類宅で、5月学校に近い垂水の丘の下宿屋、2年生のとき須磨の山手の高級住宅に用心棒かねて居候、3年の後半は学校の真下の私立の寮に入った。この3年間は私にとっての少年から大人への過渡期=「疾風怒濤」の時代だった。恩師に傾倒し、哲学に沈潜し、文学に没頭し、友情に忘我し、恋愛(論)に惑溺。次の進学は当然、仙台の東北大学文学系を目指した。それは私にとって「山のあなたの空遠く」住む「幸い」への儚い憧れだったのだが。
 仙台の東北大学法文学部哲学科に入学。当時の東北大文学系は各分野で代表的学者を集めた黄金時代だった。私を魅きつけたのは阿部次郎教授とキリスト教史の石原謙教授。
 入学のとき美学(芸術学)を選ぶつもりだったが、郷里に近い隠岐出身の先輩中川秀恭さんの強いすすめで哲学に入った。
(中川先輩はのち国際基督教大学長、現大妻女子大学長で90歳のいまも現役、親しくして頂き、日本橋三越の鳥取県物産展には何回か来訪され、私たちの絵もご覧になった。)
 宗教学の教室の隣は古川ロッパの兄さんの音楽概論の講義で、ときどきヴァイオリンの調べ、交響楽のレコード音がきこえて思わず耳をすませたものだ。当時それぞれの教授に自宅面会日があり、学生が自由に訪問して夜の数時間を先生とのフリートークですごすことができ、私も阿部先生宅に行って広瀬川のせせらぎをききながら先生のお話にときのたつのも忘れたものだ。
 有名教授といえば、その頃、あの「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が第二高等学校で健在だった。会う機会はなかったけれど詩のモデルにされた青葉城はよく訪ねた。短い期間NHK仙台放送合唱団に入り、'39(昭和14)年の中秋の名月の夜、全国放送で「荒城の月」を合唱した。私はテノール。いまでもその音階は正確に覚えている。
 青葉城につづく八木山には島崎藤村の「草枕」の詩碑があった(現在は青葉城の伊達政宗の銅像近くに移してある)。明治27年藤村が東京の明治女学校の教師をしていた頃、教え子への失恋の痛手を癒やすべく仙台で静養していたころの作品らしい。
「心の宿の宮城野よ」で始まるこの一節、私は「千曲川旅情のうた」とともに好きだ。1年生の秋から冬、春にかけて藤村全集何冊かを読んだあと、3月下旬東京で同郷親友の判沢君に久しぶりに出会ったら「俺も藤村だ」という。意気投合、旅支度もそこそこに上野駅から信越線にのりこみ、小諸までの1泊2日の無銭旅行。
 私の自信作「小諸なる」の制作動機には以上のような古い懐しい思い出が伏線となっている。
 杜の都・仙台の3年間は、学究的成果以上に貴重な収穫があった。それは何人かの終生の友人にめぐりあったこと。その1人は金井信一郎君。当時私はキリスト教会に通っており、牧師の父君をもつ彼とは入学の当初から親しかった。卒業後彼は現役入隊、華北戦線で数年、私は旧満州ハルビンで5年、それぞれ死線をさ迷う体験のあと、戦後彼は明治学院大学の教授、のち学長の重職を勤め、聖学院大学を創立、後に退職。私は高校教師定年前退職、和紙ちぎり絵活動30年、現職は日本和紙ちぎり絵大学学長(?)。60年の固い友誼の絆で結ばれている。東京サークル展は毎回見てもらっているが、今年(99年)は展覧会終了後の慰労会に出席してもらい、お祝いの挨拶までいただいた。ほかに和田英一君と四宮敬之君。東北大学哲学科の縁では最近親しくなった十年後輩の中央大学教授・木田元さん。'99年1月岩波書店出版の『定年後』(私の投稿文掲載)について朝日新聞に立派な文章で書評を書いてくださった。東京展に来訪、初対面だったが良い方を同窓にもってしあわせだ。さらに慶応大卒の渡辺茂夫君、東京展に必ずきていただいている。
 仙台の3年、私の周辺は表向き平穏だったが、郷里の兄は応召、郷里や神戸の学校の同級生たちの戦死など国内外の状況はだんだん深刻化していた。 何しろ太平洋戦争勃発の年が私の大学卒業の年だったから、図書館にこもって静かに哲学書を読む……といった長閑な雰囲気はなかった。
 '41(昭和16)年3月、偶然に知った非常時下の学生運動(学生としていま国のために役立つことをしようという生真面目な動機の学生運動)が満州開拓で少年たちの頑張っているのを微力でも激励してやろうというので、それに参加、新潟で船をチャーター、北朝鮮の羅津に上陸、国境を越え、旧満州に入った。前鳥取県知事西尾邑次氏(東京高農生)、愛知県碧南市小林記念病院名誉院長小林清氏(千葉大医学部生)もこのとき一緒だった。1ケ月近く各地を歴訪した。この体験が私の卒業後の動向を決めた。
 大学3年生は9ケ月で繰り上げ卒業、12月初め徴兵検査、第二乙種で現役入営を免がれた。その直後の8日が真珠湾攻撃である。同宿の寮生10名、金井君とも再会を期し得ない痛切なお別れをして故郷へ急いだ。

1939(昭和14)年
東北大学入学、ホヤホヤの大学生


1939(昭和14)年 4月
東北大学入学の春(右は金井信一郎君)
1942(昭和17)年 24歳  戦争が始まって初めての正月を生家で蒼惶と済ませ、10日郷里を発って茨城県内原の開拓訓練所に入る。所長は有名な加藤完治氏。偉い人とは思ったが個人的に親しくなる気はなく、直接面談したこともない。ここで大学、専門学校卒の連中数十人と3ケ月の訓練生活、その間に現役や召集でほとんどが去り、最後にのこった7人が4月下旬現地(満州)に向った。3日目新京着、満蒙開拓青年義勇隊訓練本部を訪ね、任地への辞令をもらったが、私は本部にのこされて満州全体の訓練企画立案に参加せよと命ぜられた。こういう官僚的仕事は好みに合わず、3ケ月のち現地のハルビン嚮導訓練所に赴任した。
 '42(昭和17)年9月から'44(昭和19)年3月まで1年6ケ月のここの生活体験。2学年制で1学年120名、それが5寮に分れ、1寮20余名、その寮長として生徒と寝食をともにした。この短い歳月は終生忘れがたい。17、8歳の生徒、いまの中学3年から高校1、2年生の少年たち。私の教育方針の1つは禁酒禁煙、とくに開拓村におけるアルコールの害、満州に蔓延している性病と麻薬の現状について写真や統計で解説した。少年たちには相当なショックだったろう。これが効いてその後彼らが軍隊に入ってからもシベリア抑留中も、酒と性病には充分注意したらしい。
 戦後何年も経って再会した同窓会で「先生、酒はどうですか?」ときかれ、「もう構わんよ」と答えたら「安心しました」と安堵の笑声をあげた。
 ここで一緒に暮らした仲間(教師と生徒)のなかで数名は、50年あとちぎり絵で再度出会うことになる。本人かあるいはそのつれあいである。札幌の木村キミエさん、東京(友部)の田口しづ子さん、古河の高橋徹君、千葉の故坂田季雄君、夫人の栄子さん、静岡の木村寛さんと重代夫人、堂下あや子さん、広島の野口秀利さんの夫人、熊本の井上十四春君とシゲ子さん、沖縄の運天政秀・美智子夫妻。
 ハルビンの訓練所の所在地は市の東郊12キロ、農耕地としては最高の場所、その辺一帯が訓練所や関東軍所轄(占領)の、軍用地に占據されていた。開拓とは名のみ、日本開拓民入植の農地は、長年中国農民の営農地だった。それをタダ同様で買収(収奪)し、その土地で開拓民と義勇隊の少年たちは五族協和を唱えながら営農を始めたのである。敗戦後の日本開拓民の悲運は、まさに日本帝国主義植民政策のツケがかえされたこと、山崎豊子の『大地の子』はそれを迫真の筆力で綴っている。そうして生れた日本開拓民残留孤児に対して貧しい中国農民のあたえた温情は並々ならぬもの。これに対し、引揚者や漫画家集団の心ある人々によって「孤児の養父母に感謝の碑」が今秋中国遼寧省瀋陽市(旧奉天)の郊外に建立されることになった。
(残留孤児や残留婦人に対する対策がこのようにおくれたのは、要するに日本の戦後、歴代内閣、とくに岸、佐藤内閣の反共政策によるものだ。)

1942(昭和17)年
満蒙開拓青年義勇隊嚮導訓練所時代/td>
1944(昭和19)年 26歳  3月、現地召集、東満城子溝部隊に入隊、胸部疾患の病歴で即日帰郷、ハルビンに舞い戻り、訓練所に復帰せず、ハルビン学院に国の留学生としてもぐりこみ、ロシア語専攻、昼間は学校で6時間ロシア語をたたきこまれ、下宿では白系ロシア人のお婆さんとロシア語のおしゃべり、僅か1年間でもかなりの勉強ができた。
1945(昭和20)年 27歳  3月、学院終了、開拓研究所に翻訳官として勤務が決まった段階で米子に帰り、かねて話を進めてもらっていた村川芳子と4月30日結婚、5月初め、新婚旅行は任地ハルビンへ。といっても安穏な旅ではない。2等車(いまのグリーン車)もすし詰め、門司発の関釜連絡船はアメリカ潜水艦への警戒から浮袋つけたまま、将校たちと同室の一晩。それでもハルビンまでは無事たどりつき、妻の叔父の家に挨拶、ロシア人のもとの下宿に仮住まい。8月15日までの短い3ケ月、私たちにとってのまどらかな新婚生活の日々であった。
 8月7日ソ連軍の国境突破、戦車集団の来襲、12日にはハルビンは完全に包囲。ところが13日、ハルビン学院の恩師竹内仲夫教授から、「ハバロフスク・ラジオで日本は無条件降伏するとの報道だ、自重せよ」と知らされた。そのときほどうれしかったことはない。「日本帝国主義、ザマミロ!!」と心の底で叫びながら泣いた。戦争の終るまで生きていられないと考えていたのに、どうやら生きながら敗戦を迎えることができるらしい。あとどうなろうと生きぬいてやろうと心に誓った。
 ところが14日の昼、召集令状!!「バカヤロー、無条件降伏だというのに引っぱり出しやがって!!」召集に応じなければ、軍の野郎、何するか分らん、まあ行ってみるか、と命令された集合地のハルビン工業大学に出かけたら、軍服もゴボ剱もない、着のみ着のまま、トラックに乗せられ、一晩中大砲のタマ運び。そして15日の夜明け、ハルビン郊外の陣地には野戦重砲わずか2門。砲弾は何百も山積み。見はるかす地平線の彼方には点々とソ連戦車数十輌の蠢き。「負け」だね。
 正午、遠くの日本人民家から「君が代」の曲が流れ、とたんに地平線上のソ連戦車の動きがピタリと停止。どうなったんだ?
 午後1時ごろ、部隊長の命令で全員集合。部隊長、声はりあげて「畏こくも天皇陛下がポツダム宣言を受諾された」とこれだけ。兵隊たち、何のことかわからぬままでボンヤリ。私はすぐその意味を諒承、近くの兵隊たちに「無条件降伏だ」とささやいたら、古参の上等兵に「貴様、何いいやがる」とどなられた。しばらくして、再びタマはこび、当時私の体重は48キロ、タマ1発50キロ、かついだらフラフラだ。戦争終了だのに戦うつもりらしい。ヤケのヤンパチだ、バカヤロウ!!
 翌々日の午後、結局敗戦を認めての武装解除、武器一切1ケ所に集積、召集兵集合、解散式が始まり、召集兵たちには缶詰めと酒が配られ「上官の命令だ、呑め!!」。上官の命令は朕(天皇)の命令だ、禁酒主義者の私も抗しがたい。イヤイヤ頂戴したら案外美味いではないか。これが私の酒の味を覚えたきっかけ。全くこれだけは、朕のおかげである。
 召集解除で家路に向う。命長らえて愛妻のもとへ、天にも昇るとはこのときの心境だった。
 と突然後方から轟音!! ふり返って見れば赤旗翻えしたソ連戦車の隊列。迎える赤旗の浪は市内白系ロシアの女たち。戦車はみすぼらしい敗残の召集解除兵など完全に無視して前進する。ああ長い戦争もこれで終わったのだ。これからが俺たちの時代だ---と私の心は意外に晴々していた。
 14日の召集で出発前、妻は叔父の家に同居させてもらったが、私の帰宅でもとの下宿へ。翌日から市内の日本人会で難民救援事務を手伝っていたが、私の以前居住した訓練所が難民収容所になり、1個中隊のソ連兵が駐屯したので、収容所とソ連側との連絡係(通訳)を頼むといわれ、12月初め、市内から郊外の収容所に移転した。当時妻は妊娠9ケ月、満州馬の牽く大車での引越し、このとき同僚の竹之下一家と一緒だった。この引越しがその冬の悲劇の始まりとは予想もせずに。
 収容所には国境地帯から脱出してきた難民7千人が居住。暖房も食料も衣料も不足。飢えと寒さと発疹チブスで毎日20〜30人の死者が出て、一冬に数千人が犠牲になった。妻も発疹チブス、発熱40度、早産した初めての女児も1週間で他界。円らな目の美しい顔立ちの子であった。この一冬、訓練所時代の同僚、教え子たち何人かのため泣きながら墓穴を掘った。

1944(昭和19)年
ハルビン学院留学生の頃
1946(昭和21)年 28歳  春3月、市内に移住、デパートの一隅で古本屋を開業、帰国の日を待った。
 4月、ソ連軍引揚げ、共産八路軍の進駐、八路軍の水ぎわだった軍政には感嘆した。8月の引揚直前、収容所の同県出身難民の救援資金を市内の県人会で集め、1人千円、鳥取県難民40人分4万円(いまの金で4百万円)を届ける役を引きうけ、早朝出発、収容所を目指したが、町外れの小川の畔で八路軍兵士に拘束尋問され私が正直に難民の救援金を持参するのだといったら「我們不要銭、A走B」(俺たち金はいらん、行きなさい)といって放免してくれた。その兵士の態度を通して八路軍の高邁な革命精神に感動、彼等は必ず、その目的を達成するにちがいないと確信した。それから4年後、北京の天安門上に新中国国旗が翻った。
 8月、ハルビン市日本居留民の集団帰国で帰国、生家におちつく。12月長男誕生。自宅で静穏な年末を送る。
 この頃、新潟県村松の農業専門学校の高松先生(ハルビン時代の上司)から哲学の教師にとの招待があったが、満州での疲労感が脱けきれず辞退した。
1947(昭和22)年 29歳  2月、神戸の恩師からロシア語の教師にとの誘いがあったが、これも辞退した。あとで大いに後悔したが。
 4月、鳥取県立米子工業学校教諭。まもなく同郷の判沢弘君を東京からよびもどし、同じ学校に勤めながら、米子を拠点に文化活動を始め、山陰自由大学という毎週の定期講座を組織。東京や大阪から著名な講師を呼び山陰の数都市で巡回講義(いまのカルチャーセンターのはしり)、それぞれ数十名から数百名の若い聴講生を集めた。この講座3、4年続いたが、朝鮮戦争の進展と社会の反動傾向の強化と財政的な困難も伴って中止せざるを得なかった。
 この頃親しくなった友人知人。鳥大の学生、岩村昇氏、のちネパールで結核治療につくした人。乗本吉郎氏、農政問題で日本を代表する学者、農博、島大講師。松尾陽吉氏、鳥取女子短大教授、米子市史編纂の代表。鶴見俊輔氏、哲学者・評論家として余りにも有名。1950(昭和25)年、米子工業高校退職、乗本吉郎氏と山陰農業研究所を設立、山陰農業の近代化のため努力する。

1947(昭和22)年
ハルビンから引揚げた翌年
(妻芳子、長男哲治郎と)
1952(昭和27)年 34歳  島根県立三刀屋高校(頓原分校)に就職、自然環境は最高、春はウグイス、ホトトギス、初夏はホタルの乱舞、秋は全山紅葉、冬はたっぷりと降雪。子供たちは文字通り雪の中を泳いで通園と遊戯。わが家最良の静穏時代。この町で田村充啓、阿川宏、中村三四二さんを知る。
 当時ソ連文献を読み、ソ連で進行中の「大自然改造計画」についての論文を要約、倉敷の大原農業研究所・吉岡金市農博と共著『旱魃の克服』(三一書房)を出版、のち、世界的に問題視されている地球の砂漠化論争の先駆的業績として評価された。
1954(昭和29)年 36歳  県立浜田水産高校に転勤、ここで笠井寿人、川神幸子さんを知る。人情厚く魚は美味かったが、住居に困り、郷里の米子市郊外、かねて購入していた土地100坪に住宅公庫の融資50万円、15坪の小住宅を建て、家族4人を浜田から帰らせ、私は自炊生活を2年つづけた。(いまの自宅、新築後40年、前に後に継ぎ足し2階を載せ、膨張して、のべ坪75坪、部屋数16室。ここに長らくがんぴ舎と同居、'98(平成10)年、がんぴ舎は新社屋購入移転。そのあと、屋内改造、書庫とアトリエを新設、掃除が大変と女房殿コボしている。)
1957(昭和32)年 39歳  中国科学院から日本ミチューリン会(民間の農業技術研究団体)に招待状がとどき、訪中団10名に参加、1ケ月の中国旅行、12都市を訪ね、そのうち南京で20年前〔'37(昭和12)年〕の日本軍による大虐殺の事実を知らされる。帰国して関係の本を読み惨劇のすさまじさに驚く。今度の個展出品作でも「怨霊」として南京虐殺を告発した。  9月、松江高校に転勤。
1959(昭和34)年 41歳  6月、学校の集団検診で胸部疾患が判明、米子市の皆生療養所に入所。42歳の厄年だ。'60(昭和35)年、左肺一部切除、輸血による急性肝炎、これが慢性化していまもC型肝炎。もし悪化すれば肝硬変から肝癌。ところが幸いに40年経ってもまだ肝硬変の兆候はない。肝機能の数値も悪くない。どうやらあと10年くらいは大丈夫だろうか。(ハハ、ノンキダネ!!)
 私のC型肝炎克服についての確信の根拠の1つは、サークルまわりの随処で話した「ハウザー食」。コムギの胚芽・健康粥食を40年つづけた成果と思う。いま満80歳だが、10年ぐらい若く見られるのもこの粥食のおかげかな。暦年齢80、身体年齢70、精神年齢40?(少々自惚れたか。)
 療養中から、回復後もつづけたロシア語科学文献(農林畜水産、および哲学、科学思想史)は、'67(昭和42)年にちぎり絵を始めるまでの7、8年の間に、400字原稿用紙1万枚に及ぶ。そのほとんどは出版した。教職を定年まで勤めたあとは、翻訳者として余生を送るつもりであった。
 この仕事を通じて知った知人友人。長崎大・大橋裕、別府大・二宮淳一郎、宮崎大・池田一、東京農技研・江川友治、新潟大・萩屋薫、安来市の藤井正治の諸氏。ちぎり絵もいろいろの形で応援して頂いている。
1966(昭和41)年 48歳  5月、新緑が春雨に煙る日、遠来の客を案内して何度か訪ねた八雲村の安部栄四郎先生本宅二階、民芸品展示室で、「紙をちぎって貼ってこういうものができてますよ」と示された式紙の童画、北国の少女が雪の上に座って、降る雪を両手でうけとめている可憐な絵。そばにおられた安部夫人、「この絵を見ると涙が出ます」
 私のこのときの静かな感動が、将来を決めるきっかけとなった。それは日展の100号の大作やルーブル美術館の名作を見たときの、圧倒されるような感動とはちがった、懐しさと親近感に溢れた感動だった。そのとききいた作者中野はる先生にぜひお会いしたく思った。
 その頃私は、自分のロシア語文献翻訳書を自費出版する小さな企業で、東大生産技術研究所の中沢護人先生の訳業、ドイツの製鉄技術史家ベック『鉄の歴史』全20巻を出版する計画を引きうける決心をしていた。この大訳著出版についての相談のため、姫路の新日鉄の重役を訪ね、その帰途姫路から播但線で中野先生の勤務される市川女子高のある市川駅に下車した。8月の暑い日だった。
 先生は手芸室で何十枚かの作品を見せてくださった上、私に作品3枚を記念にくださった。「バラ」「ヒマワリ」「こけし」である。初対面の私に貴重な作品をくださる、この大らかなお心に私は感激した。そして再会を約して別れた。
 その年の11月、大山の紅葉の映える頃、先生を米子と松江にお迎えして山陰で初めてのちぎり絵講習会をひらいた。両方とも30名ぐらいの集まりで皆熱心に受講し、先生の作品をお手本に制作した。しかし私は自分ではやる気も自信もなく、ただ裏方にまわって、皆さんが満足されるように努めるだけだった。
 11月の初め、先生に手ほどきしてもらったものの、そのあとは、私は勿論、米子、松江ともに一向継続しようという気配はなかった。それはやはりちぎり絵材料の和紙の入手が困難だったせいだ。山陰に和紙産地があるとしても、それは山の中の村、町の紙屋さんではちぎり絵に向く色和紙など売ってない。さりとて遠い中野先生を再びお招きするのも容易ではない。こういう状況でせっかくのちぎり絵も1回きりの花火の打上げに終わってしまうところだった。
 そこに思わぬ転機がきた。12月中旬、私の父の死去と翌年正月の服喪がそれである。